ふかいかわ

悩んでいないように見えて悩み、つまずいていないようでつまずいてて、楽しくないようで実は楽しんでる。

違うのだ

eテレのドキュランドへようこそ!をたまたま見た。アメリカ?なのかな、障害者たちがお菓子を作り、恋をしている。喜び怒り悲しみ嫉妬もする。移り気だったり一途だったり、夢中になったり悩んだり、私と同じだ。でも同じ一面を持っているだけで私とは大きく違う。健常者と障害者。

私は番組を見ていて胸が苦しくなって、途中でチャンネルを変えた。私には知的障害の叔母がいた。生まれた時から一緒で、叔母の精神年齢の後退も徐々に進行していったため、さほど気にならなかった。叔母は普通ではないということは、たぶんかなり小さい頃から理解していた。小学校高学年くらいから中学卒業まで、祖父母も親も仕事で夜遅かったから、夜は叔母と二人きりのことが多かった。部活が終わって家に帰っても明かりはない。電気を付けるとすぐそばに叔母がいてびっくりする。叔母がフライパンに火をつけたまま風呂へ行き、気付けば火事寸前なんてこともあった。雷が嫌いで、雷が鳴るといなくなる。家中探してもいない。押入れを開けてびっくり、そこにいた。私は雷より叔母の行動にびっくりすることが多かった。だけど私は叔母が好きだったし、テレビを見て一緒に笑うこともあったし、泣いていると抱きしめてくれることもあった。祖母とニコニコと幸せそうに微笑む叔母を、今でもはっきり思い出せる。

実家は僻地。今の時代のような開放的な施設がなかった当時、祖父母は娘を施設へ預ける選択はしなかった。身の回りのことは声掛けさえすれば一人でできていたから。ただ、叔母のような人は劇的な変化に弱い。

守ってくれていた祖父が亡くなってすぐに、叔母の精神が壊れて発狂した。ほとんど話さなかった叔母が、自分はいなければいんだ、死ぬ、殺せと叫び、窓から飛び降りようとする。どこにそんな力が?と思うぐらいの力で私の手を振り払い、窓に手をかけてまさに飛び降りようとする叔母の腰にしがみつき、助けを呼び叫びながら必死で止めた。家族全員で泣いた。葬式でたくさんの人が訪問に来る間、私は叔母に付き添っていた。思い出話でもしようかと肩を抱いた時、叔母が今まで見たこともない顔で私を睨みつけ、お前に何がわかる!!と怒鳴りつけた。それは狂者の目だった。恐ろしくなった私はその場から走って逃げてそして泣いた。もう、私にはどうすることもできないと理解した瞬間。

母も祖母でさえもう手に負えず、勧められた精神病院へ一時入院。窓には鉄格子、どのドアにも鍵がつけられている。両足に鎖が付いている人もいる。人形を抱いてずっと同じところを歩き回る人、何もないところに話しかけ続ける人。叔母は怯えてカタカタと震えていた。祖母は先生にお金を握らせて、お願いしますと懇願している。もちろん先生は受け取らなかった。こういうことは慣れているといった様子から、他にも祖母のような取り乱した家族が多いことを知った。付き添った私はしっかりしなければと平静を装うのが精一杯で、なんとも言えない気持ちだった。

退院後は自宅介護、高齢者が介護する側ということの難しさを突きつけられる。施設へ預けるという選択は祖母にはなかった。祖父がそうするように決めたことを守っているように思えた。発狂後の叔母は元の状態に戻ることはなかった。祖父の生前も落ち着きがなくなって歩き回ったり泣いたり、奇声をあげることもあったらしいが、一時入院後は抗うつ剤などの服用で、感情のコントロールなど今までも出来ない叔母は薬の作用に流され、介護はより難しくなっていた。その頃私は東京で働いていて、連休や長期休みには実家へ帰って家族孝行しているつもりだったけど、私が東京へ戻る時、いつも叔母は泣いていた。そしてしばらく鬱々としていたようで、帰らない方がいいのか悩んだりした。

叔母が亡くなったのは本当に急だった。ある日病院へ行くために祖母と母と叔母の3人でタクシーで向かっている途中、眠ってしまった叔母。祖母は病院へ着くまで寝かせようと思ったらしい。いざ病院へ着いたものの全く起きないのを見かねたタクシーの運転手が、看護師を連れてきてくれた。だが、看護師から出た言葉は、亡くなっています、だった。それでも蘇生を試みてくれて、その最中に母から電話で状況を知らされた私は、翌日帰省する。既に亡くなって横たわる叔母は小さかった。母に化粧された顔は眠っているかのようだった。

叔母の死因は、入れ歯を飲み込んでしまったための窒息だった。警察も来たが事件性はなかった。入れ歯が顎に合わなくなっていたが、行きたがらない為にそのままにしていたのだ。そういえばカラカラと口の中で遊ばせていたのを思い出す。でも誰のことも責められない。まさかそんなことが起こるとは考えなかった。でも祖母はひどく落ち込んでしまい、その後も叔母の生前のような元気はなかった。今までその手にあったものを失って、生き甲斐をなくしてしまったのだと思う。まだまだ若い私と母は、これからの人生があって、ひどいかもしれないけど、一区切りついたようなそんな話をした。

eテレに限らず、障害者の番組をみるたびに叔母を思い出す。一人だとこうやって苦しくなるけど、母と二人だと懐かしむことができる。叔母と同じようなタイプの障害者を見かけると、その家族のことを思い、憂う。私は障害者を差別して見ている。それは、やはり違うのだから。

番組を見ての感想は人それぞれだろう。そこへ関わりたくない人、こういう人たちもいるんだとただ思う人、それでも私たちは同じだと言う人、助けたいと思う人、蔑む人、憂う人。それは、やはり違うからなんだ。